だれしも…「覚えている日」っていくつかあるよね、、、

2025年3月10日

 2011年3月11日金曜日(平成23年)14:46分、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した。

 日本列島の東上半身をゆすぶる大地震や…何度もマグニチュードが上方修正されたし、津波の爪痕が15年経った今でも残っとる、突然、家族や知人失った人々の思いは想像を絶するもので、決して忘れることはできないと思うんよ。そして、日本の「原発神話」が完全にぶっ崩された日でもあるよな。

 その日その時間、勤めている塾の事務所には、自分と同僚のU先生、事務員の方たちが2人いたんや。突然、地面が「ぐらっ」と強い力で持ち上がったような感覚が襲い、少し、長い強めの揺れが続いたんよ。小さい時に、「震度5」程度の地震の経験があったので、これぐらいの地震ならと思っていた次の瞬間、同僚のU先生が「これは、大きい」と叫んだんや。

 次の瞬間、床が「八の字」に大きく暴れ出し、事務員たちは、とっさに机にしがみついた。立ってられないような揺れが襲ってきたんや。

 片づけるのが下手なU先生と自分の机の上からは、「丸付け」途中の生徒の答案、読みかけの本などが床にどさっ、ばばばば、と床に散乱し始めた。ここから、ちょっとの間、記憶がはっきりしないんやけど…

 揺れが止まったあと、顔を見合わせて、真っ先に思ったことは、今日の授業をどうするかということ。休みならば、今日授業のある生徒約150名に連絡を取る必要があった。

 携帯で「TV」を見ると、どうやら大変なことが起こっているらしいと分かった。まるで「特撮」のように、建物や家が破壊され、流れてくのを見て…言葉を失った。

 塾長、教室長から電話で、とんでもないことが起きてる。すぐに全塾生の家庭に電話で今日は休みだと伝えるように、という指示を受け、その日、事務所に来た先生たちと協力して、まず、午後4時50分から授業が始まる小学生のご家庭に電話をかけ始めた。次は、中学生と高校生。終わるころにはすでに6時を回っていた。

 やっと一息つけたので、北海道の母親に電話を掛けたのを覚えている。

 7時過ぎまでは、塾に待機していたで。連絡がつかなかったご家庭の生徒、親とうまく連絡が取れなかった生徒がぽつぽつと、授業があると思って玄関から入ってきた。変な話やが、みんな、塾が好きで通っている子ばかりだったので、「塾がない」ことをわかって喜んで帰った子はほとんどいなかったように思う。

 その夜、中山道は「真っ暗け」やった。信号機はつかず、道路照明灯が消えた中山道…「闇」の中山道を大勢の人々が無言で「歩いて家に」向かっていたんや。一生忘れられん…なんや物悲しくて、せつのうて…衝撃的やったよ…。

 今、「北海道の道東沖」や「南海トラフ」「東京直下」の大地震への関心が高まっている。特に「南海トラフ」や「東京直下」に関しては、2025年の3月~7月が確率が高いのではないか、という予言や予測が飛び交っている。

 大切なのは、「当たるか当たらないか」ではなく、いつでも起こる恐れのある「災害」に対して「備蓄」や「地震への備え」ができているか、できていないか、だと思うんや。

 3月11日、毎年、ニュースを見るたびに、地方の「地震災害」の回復の遅さや、一瞬で、大切な人、今ある生活を突然、奪われる恐さを考えさせられる…。

 亡くなった方々のご冥福を祈り、一日も早い完全復興を今年も祈るとともに…未だ、過去に起こった「自然災害」を教訓にできていない自分自身を、深く反省するものである。