日記④今、教育水準の高いある国で紙と鉛筆の教育が見直されている!
11月16日(土)の「池上彰ニュース解説3時間SP」でも扱われた内容なのだが、今、スウェーデンでは、「紙の教科書」「手で書く」という教育が再び行われている。
スウェーデンは、教育においても「超先進国」である。日本とは異なり、すでに2010年に、生徒が個別にタブレット、PCを使用できる授業体制に踏み切っている。ところが、2023年8月からの授業では、印刷された教科書、本を読む時間、「打つ」のではなく、「手書き」を重視する教育、つまり、「一昔前」の教育を行っていることになる。なぜなのか?
もちろん、スウェーデンの学校大臣の「ロッタ・エドホルム」氏が「デジタル教育」に疑問を抱いていることも大きな理由の一つだが、このほかにも、2016年から2021年にかけ、スウェーデンの小4児童の「読解力」が落ちていることも挙げられている。
池上彰の11月16日(土)の「池上彰ニュース解説3時間SP」の中では、「数学」のことが取り上げられ、教師が、授業中、生徒たちは、課題に取り組み、問題を解いているうちに、「SNS」を気にしたり、どうやら、深く考えないまま「インターネットを閲覧」してしまうと言う。「集中力」にもかなりの悪影響が出ているとのことだった。番組内では、コメンテーターから、「図などを実際に書いた方がわかる」という意見も出されていた。
以前にも、載せたが、「書いて学ぶ」「目で見て学ぶ」「耳で聞いて学ぶ」、各個人で「能力の偏り」がある。つまり、得意、不得意があるということだ。プラスアルファで「個人の脳力」、例えば、何回読んだり解いたりすれば覚えられるか、何分で公式などの基本事項を覚え、それを使うことが可能か、どのくらい長い文を理解し、複雑な問題処理できるか、それらを確実に解けるまで粘れるか、なども「学力」を決定するの重要なファクターとなる。
現代の生徒たちは、「すぐに先生やネット先生に答えを教えてもらいたがり」「長い時間、試行錯誤して集中し、問題を解決する」ことが苦手な生徒が多いように感じる。「答え」が見つからない場合は、あきらめる傾向もあるようだ…「塾」に通えば何とかなる、というものではないのだ。一例を挙げると、親が我が子に望む英語のレベルは、おそらく、新聞が読めて、海外で生活ができ、自分の意見が主張できるというものだ、と思うが…新聞が読めて、自分の意見を言うレベルの英語力を手に入れるためには、少なくとも、相手の意見をいったん受け止める能力(質問、インタビューのスキルを含む)、それを自分の中で消化し、批判できる技能が必要だ。代案のない批評は誰にでもできる。自分の意見とは、相手との妥協点、自分の案で相手を説得するだけの内容でなければならない。
英語にせよ、国語にせよ、数学にせよ「共通テスト」で選択肢だけ読めば分かる、選択肢でまず答えのあたりをつける、「解けない問題はパターンを丸暗記」、というような解き方に飛びつく生徒たちが、このレベルに達するのはかなり厳しい。
例えば、「耳で学ぶ」のが苦手な場合、英語では「発音」に影響が出ることが多い。逆に、多くの生徒を見てきた経験では、「数学」を「ラジオ」で「耳」からマスターできる生徒はほとんどいない。
古来から、多くの数学者が「手で黒板を埋めてきた」ことを考えると、「手と目と脳」を使う形が「数学」を深める「本来の形」ではないか、と思う。数学では、「思考」を「書き」、「目」で確認する作業が重要なのではないだろうか。
一方「目で学ぶ」のが得意な場合、それをどのように「長期記憶」に持っていくかや答案として「書いて表現するか」が難しい。
一度会っただけでは、その人と名前がなかなか覚えられない人は少なくないだろう。単純な例としては、「画数」の多い漢字を使った熟語を覚える際、目でぱっと確認できる「動体視力」があっても、「書く」となるとそう簡単にはいかない。「憂鬱」を「読める人」は多いが、見たことがある「漢字」なのに書けない、という人は、一人二人ではあるまい。
「声で学ぶ」のが得意。例えば「1回書くなら、声に出して10回読んだ方がいい」という先生が少なくない。が、この場合も、そこから「答案用紙」に「書いて」表現する場合、「英単語」「漢字」を正確に書けるか、口で言える「公式」を実際に数字を使って答えを出せるかは別な課題になる。
有名どころは二次方程式の「解の公式」。「2a分の-b±ルートb二乗-4ac」と数十回呪文を覚え、書けるようになったものの、実際の数字を代入する際に一度は間違えて、なかなか答えにたどり着かなかった経験はほとんどの方が経験ずみのことと思う。正確な式変形のテクニックと「平方完成」の偉大さを利用すれば、公式は自分で導くことができる。最近では、「高校入試」でも「二次方程式の解の公式を導きなさい」という問題もちらほら出るので、デキた方が「better」だ。
その昔、「中学生の勉強室」というNHKラジオ第二放送(1962~89)の番組があった。「テキスト」を「目」で見て、「手を動かして」予習し、「ラジオから」流れてくる先生の声を「聴き」、放送中、答え合わせをし、自分が疑問に思ったことや先生の補足説明などを「書きこむ」。
たまたまその昔、塾講師の先輩が持っていた「中学生の勉強室」のテキストを見せていただいたのだが、当時、講師陣の中に、国公立の高校教諭の名前が並ぶ中に、後の数学の超人気講師「小林隆一(著書「数学Ⅰの実況中継」「数学Aの実況中継」は、今でも数学が苦手な文系の生徒は一読の価値があると思う)先生」の名前が並んでいて、驚いた。
ネットで「中学生の勉強室」で引くと、その当時(昭和の中期から後期にかけて)「地方に住む中学生」の進学の強い味方であったのではないか、と推測できる。ネットでも「中学生の勉強室」の記事が散見される。なにせ、当時「東大合格者」を輩出するような「高校」の先生の講義がテキスト代のみで、各教科「ラジオ」から流れてくるのである。上位校を狙う生徒たちにとっては信じられないほど「ラッキー」だったに違いない。
と同時に、中学校で「オレ、デキるぜ」という生徒にカルチャーショックを与える講座だったんだろうなとも予測できる。番組が始まった当時、「大学入試」では「予備校時代全盛期」直前ぐらいであるが、田舎においては、「中学受験」の意識もなく、塾なんて小学生のうちから通わなくても良い、まだ、「補習塾」が主流の時代だったはずだからだ。
この講座、ラジオだけに、実力アップにつなげるには、ちょっとした手間が必要だ。
「国語」はおそらく「予習なし」では力がつかない。よほど「一読法(簡単に言うと、一度で内容を押さえる読み方、中高生にはある程度時間をかけた修行が必要)」に長けていれば別だが、予習なしでは「問題文の美しい朗読」を聞くだけで終わってしまう(それだけでももちろん勉強にはなるが…)。余談だが、今でも「NHK古典講読」の朗読は思わず聞き入ってしまう…。
「数学」も然りで、「予習段階」で「手」を使って解いていないと、「解説」についていけないだろう。なにせ、ラジオは止まってくれない。
「英語」だって、「帰国子女」なんてそんなにいない時代だ。発音だっていい加減な先生もいただろう。「分からない単語」の下に意味を書くなどという「小手先の技術」では授業に対応できない。事前に「日本語訳」にチャレンジ、自分が読めない、分からない単語・文を見つけ、講義中に耳を傾け、実際に「範読」に近い「音読」ができるようにすれば、相当の力がつく内容であったことは「テキスト」の分量と内容を見れば分かる。
※当時、「英会話」をテーマにする番組はあったが。今と違って、実際に中学生向けに「長文」を音読して聞けるような番組はほぼなかった、と先輩は話していた。超個人的な意見だが、自分は、「東後勝明」先生、「遠山顕」先生、「投野由紀夫」先生、「大杉正明」先生の講座が好きだった。「投野」先生の「基礎英語3」はまさに絶品であり、終了時は、しばらく「投野ショック」が私を襲った。もちろん、大西泰人先生のラジオ番組は開講当初からのリスナーだ。おっと、言い忘れた。同時通訳の「鳥飼玖美子」先生の番組もよく聞いていた。英語を「たかまり」ごとに前から訳す技術は本当に感動ものであった…。
完全な余談ではあるが、「ディクテーション」「シャドウイング」をするなら、前にも話したと思うが「NHK Enjoy Simple English」がお勧め。「テーマ」も多岐にわたっていて、おもしろい。塾の先生が、穴埋め、整序、英問英答、内容理解などの問題を作っても面白い。
さて、「中学生の勉強室」では、国語や英語の朗読や英文の音読を聞き、知らない数学の「解く技法」を知るだけでも勉強にはなる。でも、それだけで点数が取れるようにはならない。「目で読み」「声に出し」「手で書き」「脳で思考する」ことや「予習」「授業(ラジオを聞くこと)」「復習」が「定着」には必要になってくる。そして、「定着」には「粘り」と「集中力」は欠かせない。
「決まった時間に机の前に座って勉強する」という生活習慣にもなる。録音して聞いてもよいが、それをちゃんと次のラジオの時間までに終わらせておく(代々木ゼミナール、あの「接点t」で超有名な「荻野暢也先生」曰く「ちゃんと自分でケツを拭いとけ」:ビデオ講義などで休んだ分は次の授業までにマスターしておけ、という意味)ことができるのは、ごく少数の生徒だけだ…気になる方はユーチューブに行って一度、代ゼミの「荻野先生」に会ってみるとオモイシロイかも、である。
昔、「予備校で教えてみる」「大学の先生になる」と誘われたことがあるが…今思うと、競争意識があまりなく、勢力争いにも興味のない自分には、踏み込んではいけない凄い世界だったんだな、とあらためて思う…。自分ができるのは、「教える」ということで生徒の背中を押すことだけだ。
今、コロナ禍の時代を過ごす中(病院でほぼ強制的にマスクが必要であり、死者が0にならない限りは自分の中では続いている)、「会社という場に実際出社して仕事をする意味」や「人と実際に対面でコミュニケーションをとること」「集団やチームで、決まった時間に仕事をすること」などがひそかに世界で注目されている。
「大手企業」の社員への「週3日以上の出社の要請」は、「社員が自由に働く権利」を監視したり制限する目的以外の部分が大きいと思われる。この件に関しては、余裕があるとき、別の機会に書きたいと思う。
今、「手で書くこと(ノートすること)」に関してブログで自分が盛んに訴えている大きな理由の一つは、「定期試験」でも「大学入試」でも「答案用紙」には「書く」力が、まだ必要だからだ。そとえ、タブレットやPCを使う試験に変わったとしても、「時間内」に「打ち上げる」ことが必要になる。つまり、自分で「解答」を「考えて」時間内に「打ち終える」と言う意味においては今までの「書く」ということがベースになるのは言うまでもない。
もともと「書く」と言う作業は、「コピー」の発達、「レジュメ」「授業プリント」などの出現とともに、年々少なくなってきているのはご存じの通り。
平成10年前後から、「書き順」が変な生徒が増えたな、と感じていた。「田」と言う字を3画や4画で書く。そんな生徒がクラスに何人もいるのだ。「正しい書き順でかける」のと「書けない」のでは、どちらがいいか、と言われれば、まだ、「正しい書き順で書けた方がいい」という人が多い、と自分は信じたい。
「中学受験」の盛んな大都市(当然、国立や私立の中学が多い場所だ)、その近郊では、「四谷大塚準拠」の塾が多数あるが、国語では、予習シリーズの他に「漢字とことば」というテキストも併用し、「漢字のテスト」を行ってる塾も多い。このテキストには、漢字の「書き順」も載っている(自分が教えている頃は載っていた)と思う。実際に、小4クラスを受け持っていたころは、漢字のテストも週一で行っていた。
「中学受験」では、中学・高校にいっても困らない内容を「テキスト」で勉強することになる(自分の塾では、中学受験生の「算数」も見た経験がある)。実際に小6のテキストとの計算問題を「これ、小学生が解いてる問題だけど解ける?」と中学生に出すと、「何度やっても答えにたどりつけない」生徒が続出するのだ。
平成後半~令和になると、「書くのが遅い」「自分からノートを取らない」生徒が増えた。入塾時に「ノートの取り方」から教えます、というのを売りの一つにする塾も多くなった。
が、だから「タブレットがいいだろ」と考えるのはあまりに短絡的だ。
字が下手な人や、書くのが遅い人には「タブレットやPC」は確かに便利だし大人でも重宝するだろう。
でも、「大学入試」や「高校入試」では、「タブレット」だろうが、「PC」だろうが、候補画面に並ぶ漢字から、正しいものを自分で選択し、自分の頭で答案を考え、時間内に「ミスなく」「合格答案」を打たなければならない。それは、「手で書くとき」と変わらない。おそらく、理系の試験では、当面、「図」や「グラフ」、「途中式」は、手(専用のペン)で画面に書くようになるだろう。「定期試験」では、「グラフより」なんて答案が超有効な場合もある。「書く」方が慣れている、「スタイラスペン」などがうまく使えない生徒は、解ける問題を落とす恐れもあるだろう。
それを考えた時、「手書き」と「キーボードなどを打つ」勉強をうまく併用する必要があるのではないか、と思う。「指導要領」が変わる時には移行期間があるのに、なぜ、「教科書のデジタル化」や「タブレット使用」に変わる「移行期間」や「併用期間」への配慮はないのだろう。そもそも「教える側」が使えていない可能性も十分ある。
他にもいくつか「タブレット・PC」を使う勉強法には懸念はある。それは、「AI」の活用法だ。
今、大学生は、「AI頼み」でレポート作成をしている者も少なくないと聞く。「AI」が作成してくれたものを、自分の言葉で書きかえるだけ、それは、本当にその子(人間)の実力なのか。
今一度、「著作権」について、本気で議論しなければならない予感がする。「作品の保護とはいったい何のか」「カラオケ」や「ピアノ」の発表会での作品の使用についての「著作権」とはいったい誰が得をする著作権なのか、「残された家族」のための著作権になってしまっているケースはないのか、本人の実力以上のものを与えてしまう「AIに関しての著作権」についてなど…そうそう、忘れてはならない…「入試問題」の「著作権」について。
小学生が、自分の感想文を書いたあと、逆に「AI」に、自分の書き上げた感想文を「芥川龍之介調で」と作成してもらい、それを学校に提出したら…その評価をどうするのか。もともと力のある生徒が、自分が書いた(AIに頼む前の)感想文でも教師をうならせる内容だった場合、問題が発生しはしないか。
学校では、クラスの生徒全員の机間巡視の代わりに、「AI」先生が説明する形をとっている学校もあるようだ。「AI先生」が教えた内容で何か事件が起こった場合、責任を取るのは誰なのか。担任の教師なのか、校長なのか、それとも授業で使える説明型「AI」を作った会社なのか。そもそも、その「AI」先生は、学校の教師と同じ手順で生徒に説明しているのか…。「自動運転」の責任の所在と同じぐらい重みがある議論ではないだろうか。
「小学校」の就学前の児童に対し、海外では「生成AI」「SNS」の使用を禁じる動きも出てきた。
逆に、日本では、「司法試験」の「論文試験」も、近々「打ち込み」形式になるようだ。「書く方」が速い、「書く方」が慣れている人や、キーボード入力が苦手な人にとって、相当不利になるだろう。少なくても、変更される年までに、準備を済ませるか合格してしまう必要がある。ひょっとしたら、60代、70代で夢を追いかけて勉強している人の「志望試験合格」なんてことは今後なくなるのかもしれない…。
「試験」が嫌い、「本番」に弱くても、「流行(新しい勉強や勉強法も含む)」についていけなくても、素晴らしい「天才型」の人間はどの時代でも存在している。「奨学金」を「返納しなくてもよい」ようにしたからといって、有能な人材が見つかり「大成」するわけではない。「多様性」というのは、「耳にやさしい」言葉だが、世の中、「得をする人間」もいれば、必ず、「損をする人間」が出てくる…。
おそらく、数百年後、地球から離れた星で生活できる人とできない人が出てくる…行きたいと思ってもいけない人も当然いるだろう。その時、他の星に旅立てる人たちは、本当に「勝ち組」なのか…?どのような「多様性」のルールのもとで、誰が誰をどのように選抜するのだろう…。すでに経済力、軍事力のある国では、「宇宙」への「かけ引き」は始まっている。
近年、日本は「少子高齢化」「人口減少」が進み、その重要な「ロールモデル」として世界中から注目されている。
政治にあまり多くを期待できない状況ではあるが、今こそもっと、日本の社会に合った「AI」の使い方を期待したい。
さて、2024年もいよいよ年末が迫ってきた。「今年の皆さんの漢字」は「何」だろうか。自分は、自分の手で「書ける」漢字を何歳まで選べるだろうか。歳なのか、ときどきそんなことが頭をよぎる。思いついた漢字が「書けない」時代がまだ少し先にあることを祈りつつ、今回は「That’s all for today」…なのだ。
※ここまでお読みいただきありがとうございました。目の持病があり、投稿は不定期、見直しては直して、ということにはなりますが、また、ブログでお会いできると書く励みになります。See you.
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