日記 四十一の巻
12月 最終週水曜 大晦日に、「よみがえる新日本紀行 選 年越しの駅・青森」を見る
▶予備校に通っていた時分か、大学生1,2年の頃だったと思う。列車名は忘れたが、北海道に帰省する際は、青森までの「特急列車」によく乗った。夜中に青森に着く列車で、青函連絡繊維乗れば、翌朝、5時前の「函館発札幌行き」の「特急北斗」に接続する。
▶青森が本州と北海道をつなぐ、「玄関」だったころの話だ。
・青森が近づくと、「乗船名簿」に自分の名前を書き、大急ぎで駅の構内から、青函連絡船の乗り場に向かってかけだす。冬だと、空は真っ暗で、自分がどこをどう走っているのか皆目わからない。周りの人についていくだけだ。
・とにかく、10人~15人程度あがることができる、カーペットが敷いてある場所(席)を目指す。何か所か設置されている青函連絡船の中にあるその場所は、お盆と正月前後の帰省の時期は、あっという間に人で埋まってしまう。そこで、みんな、荷物をそばに置き、2,3時間、ごろ寝するのだ。もちろん、椅子の席もあるが、午前0時30分ごろ出航で、4時間半、函館に着くまで椅子で揺られながら寝るのはちょっとつらい。
▶青函トンネルが完成し、寝台特急が「上野‐札幌間」走り出すようになった。いつしか、青函連絡船は徐々に人々の記憶から薄れていった。
▶やがて、青函トンネル開通に伴い、「寝台特急」が全盛期を迎える。当時、たしか、青森駅では、「北斗星」はホームに入り、進行方向を変えたような記憶がある。詳細は避けるが、青森駅の構造がが、その昔、北海道への玄関口であった証拠である。一方、「カシオペア」は、ホームではない場所に行った停止し、北海道へ、そのままの進行方向で向かっていたように記憶する。
▶りんごジュースonlyの自動販売機。雪明りの中で、静寂に包まれたホームの佇まい。
▶建物がどこまでも続く関東平野から、すぐに、市街地から農地へ、さらに、険しい山や原野の風景に変わる北海道へ。そこには、実際の二点間の「距離」や「時間」の遠さだけではなく、ふるさとへの心の距離と郷愁が確かにあった。
▶私の祖母は、当時、7時間離れた場所に帰っていく、父と母、そして孫の私をホームまで見送り、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。列車が走り出しても、おそらくホームから列車が見えなくなっても…。
▶飛行機全盛の時代である。今、5時間の壁に、「北海道新幹線」が挑戦している。
▶行こうと思えば、いつでもどにでも迅速に行ける時代に生きる現代人たちは、空から、どんな風景を見、何を思いながら移動をするのだろうか。
▶YouTubeで、「Richard Tee & Steve Gadd- Take The “A" Train」「Michel Camilo trio-NSJ-On Fire」を観る&聴く。


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