きれいなノートは、すべての生徒にとって「正義」ではない③

2024年9月26日

「第二回」では「ノートに書くべき内容」などに触れながら、「何を書くべきか」「どんなノートがお勧めか」ということを英語・数学・国語で例を示した。また、その際、「分かりたいという生徒の気持ちが、具体的な行動を伴うことが大切であると説明した。加えて、保護者側と塾側のノートに対する意識の違い」や、これから「タブレット」や「PC」を「ノート」や「入試の解答用紙」として使う際、「生徒がどの入力方法に慣れているか」によって「解答時間のバラツキが出てくるなどに問題があることにも軽く触れた。

講師側の新しいツール、「電子黒板」と「白板」…使う人によっても効果が分かれる…★

 小学生にも「タブレット」が配布され、それを使って、授業を受けられるようになった。生徒だけではなく、学校の教師や予備校・塾の講師も「黒板」「白板」以外に「電子黒板」という新しい授業用の武器を手に入れた。

 「電子黒板」は、「字に自信のない教師、講師の心の負担が軽くし、また、その使用によって「教科書本文」や「問題、図、表自体」を「書く時間」短縮され、説明も「smooth」に行えるかのように思える。が、「便利だ」「授業時間の有効活用につながる」「余った時間は自分のネタを話す」などと思っているようでは、「いい授業」はできない

 「見やすい」「教える側の書く時間が短縮される」などの利点がある一方、「黒板」のように縦横無尽に使うことができず、スペース的に「自由自在」に説明を書き足せないなどの問題が「電子黒板」には生じる。時には、授業中、ひらめいて「白板」や「黒板」に追加して書き足したくなることがある時などちょっと困る。また、操作に慣れていないと、自分の思ったような「smooth」な授業展開にならない。これは意外に重要で、「ぎこちない授業」になってしまうと、互い(教えている側と授業を受けている側双方)の「集中力」も下がり、授業で最大限の効果を引き出しにくい言いにくいが、「板書」にも「うまさ」があるように「電子黒板」を使うのにも「才能」というものが要る

「電子黒板」に変わったって、使い方がうまい先生の授業を受けたいのが人情ってもの(自分はそう思う)だ。世の中に「誰でも簡単にできるようになること」なんてことは、なかなかない。

 「白板」であれば、余白を利用し、「生徒の手の動きや反応を感じ間を取りながら、電子黒板使用時に必要な「操作」を気にせず書くことも可能だ。

電子黒板」の場合、例えば、授業中、「5行目~7行目だけ」を瞬時にズームし、「行間に説明」を書こうとすれば、「行間をイメージ通りに広げる」「あるいは行の下、または左にほどよいスペースを作れない」と、「本文」にアンダーラインを引き、その下や横にきれいに説明を書き入れることがかなり難しい。教える側のPCに統一したアプリを入れ、「黒板」と連動すればよいのでは、などと簡単には言うが、「使い方」をマスターし、「使いこなす」先生や講師の数は限られることは間違いない。

 一方、「白板」なら、「5行目~7行目」の本文を別の紙に書いて用意し貼ることもできれば、「5行目~7行目」だけを残し、周りを消して、説明を書き加えることもできる場合によっては、全文を板書し、残したい「本文」以外を消し、そこに「説明を書く」ことだってできる。たとえ、「電子黒板」でできるとしても、この画面を設定するまでの「操作」に気を取られてしまう教師や講師は多いと思われる。これでは、自身が納得のいく授業ができない。先生が「電子黒板」に慣れるまでの間、その授業を受けさせられている生徒たちへの「弊害」を考えるとたまったもんじゃない。「先生もがんばってんだよ」では済まない問題だ。

これならいっそ、「黒板級」のデカい「タブレットPC」を全教室に設置した方がよいと思ってしまう。

 「黒板革命」と言うとおおげさだが、やはり、新しいものを取り入れるということは「大変」なことだ。「電子黒板」の研修会や展示会、「説明会」などが開かれているはずだが、その説明の場で、操作の説明を「教えてくれる」技術者や担当者に「分かりやすいし、教えている私よりもほめ上手ね」「教えるのが下手だね、ちゃんと分かるように説明してよ」な~んて言葉が「先生」や「講師」たちが、「説明をしてくれる人」との間で交わされているのかどうか…興味津々である…。

 ”Looking at other people’s behavior, look back at you.” みたいな…。

学年が上がると「難しくなる授業」とそれに伴う生徒たちの「消化不良」★

 「授業内容」が増え、学年が上がるにつれ、内容もそれなりに「難しく」なってくる。当然、生徒たちは「消化不良」を起こしだす「難しいことを簡単に」とはよく言うが、クラス全員が一つの内容をマスターするように授業するには、相当の授業準備と腕が必要だ。ただでさえ、脱線が好きな生徒やその教科が「嫌い」な生徒がいる中での集団授業、真剣に授業を受けている生徒の中でも「ノートを取る」のに精いっぱい「板書を全部写しきれない」お子さんが出てくる。結果、授業後に「十分に理解できない、習熟しない生徒」がいることになる。苦手な教科だと先生に質問もしない生徒が多い。テスト前、復習し、それを「ノート」にまとめようとしても、ワークで「演習」しようとしても、そもそも、授業中の「分からない」状態のままなので、テスト前に「まとめのノート」だの「提出の学校のワーク」どころではなくなる。こうして、学年が上がると「英語嫌い」「数学嫌い」の症状がどんどん進み「深刻化」していく。

◇◇◇これに関しては「塾」でも「同様」の現象が起こりうる。でなければ、「塾に通えば」成績が下がる子は「一人もいない」はずだ…「声を何十回かけても宿題をしない子」は実在するし、中1で内申「5」を取っても中2、中3で「4」や「3」に内申が下がっていく子もいる。そういう生徒が一人もいない塾は、おそらく…残念だが全国津々浦々皆無に近い「第一志望校全員合格」という響きの良い「うたい文句」も「入塾時に伝えた第一志望」ではなく、中3の「12月の三者面談」で決まった志望校のことを指すことが多いのはご存じの通り。◇◇◇

さて、子供たちの「学力」が怪しくなってくると、「塾に通わせる」という話が出てくる。「苦手教科」の成績を上げるために、「さまざまな塾」に行き、「体験授業」を受けてはみるが、なかなかお子さんにぴったりの塾がないのが一般的だ。★

 ここで、少しだけ、「塾選び」の話をさせて欲しい。

 保護者の皆さんは、塾選びの際、何を重要視するだろうか。「先生の評判がいい」「子供の第一志望に合格した塾生がいる」「近所の成績の良いお子さん、あるいは学校のクラスで成績が良いお友達が通っている」「自転車置き場」を観察する、「面談の際の対応」が丁寧か、「電話をかけた時の対応」が適切か… 

 「先生の評判がいい」とはいっても、一つの塾には「社員」もいれば「学生講師」もいて指導歴もさまざまだ。見てもらいたい先生に、入塾後、実際、授業をしてもらえるかどうかはわからない。入塾時の面談で「宿題の多さはどうでしょう」なんて聞いている場合ではない。「宿題」が重いと感じ、ついていけない塾であれば別の塾を検討すればいい。それよりなにより、たとえ、その先生に教えてもらえなくとも、ご子息・ご子女を実際に教える先生と「面談」し話を聞いておくべきだろう。少なくとも、お子さんの学年を担当する社員の講師と話をしておきたい。

「子供の第一志望に合格した塾生がいる」「近所の成績の良いお子さん、あるいは学校のクラスで成績が良いお友達が通っている」場合、ご自分のお子さんがその塾で成績が伸び、合格するとは必ずしも限らない自分が親なら、入塾面談で「ウチの塾は、この高校に昨年度合格者を出した経験がございます。お預かりさせていただければ必ず合格させます」と言う塾は絶対に信用しないし選ばない。「未来」に「絶対」はない。自分は、1件目の塾で「時間講師」を始めた時から「必ず合格できます」と言う「不確実」な言葉は親に絶対に使ってはならない、と徹底的に教育されてきた。

 また、塾では通常、クラス分けがされており、噂の「成績の良いお子さん」と同じクラス(同じ環境)で勉強できるとは限らない。例えば、ある学年に「Aクラス」「Bクラス」「Cクラス」とある塾で、親御さんが「Aクラス」を希望されて塾を訪れたとしよう。面談終了後、「一つ習熟度を下げたB」クラスで「体験」し、そこで様子を見て、イケそうなら「上のAクラス」からスタート、ついていくのがきつそうであれば「親の希望」とは違う「Bクラス」でスタートというケースが自分の勤めていた塾では多かった

 さて、見逃されがちな「自転車置き場」。この「自転車置き場」こそ「その塾の姿を映しだす鏡」と言っても過言ではない。整然と整理された自転車。「あいさつ」を交わす「先生」と「生徒」。先生の服装や通っている生徒たちがどうのようなタイプが中心かも観察していれば分かってくる。だらだらと、自転車置き場で「オキニ」の生徒や「ちょい推し」の先生といつまでも話していたり、平気で、保護者とのスマホの通話が周りに聞こえるような大きな声で話したりしている先生がいる塾には親としては通わせたくないだろう。

 「面談の際の対応」「電話の対応」の悪さに関しては、は、対応が、「丁寧ではない」「適切ではない」場合、その塾にはお子さんを通わせたくない、ということで、説明はいらないと思う。

 ちょとだけ、保護者の方たちに知っておいて欲しいことを書きておきたい。数年前から、「体験授業」が始まると、小学生の子供の机のそばにべったりくっついて(授業中なので、生徒の横にイスはもちろん出さない。他の親御さんが後ろでイスに座って見学している中)、我が子にシャープを持たせ、ノートを開き、手で先生が読んでいる箇所を指で指し示して…というお母様が増えた。「初めての授業」だとしても、「親の指示」と「補助」がなければ授業を受けなければならない状態では、まだ「塾」に来るのは少し早いような気がする。ご本人の成長のためにも「体験授業」の際は、なるべく先生にまかせていただけるとありがたい

◆◆◆自分は…もし、自分の子供が「塾」に行きたい、と言った場合、必ず「授業見学」までさせてもらう。そして、我が子の「苦手教科」の「授業」の様子を必ず見る。授業を観るのは、塾の先生を長年やってきたと言う理由からではない。

「得意教科」であれば、ある程度、積極的に授業に入っていくのは予想できる。それも、塾側の「作戦」のうちだ。国語が好きなら、国語の授業でメッチャ楽しませておく。そして、その楽しい気分のまま何とか「嫌いな算数」を乗り切ってもらう…。だからこそ、我が子が活躍できるかも、の国語の授業ではなく、「算数」に注目するのだ。「苦手教科」の授業中、「興味を持って持参加できているか」「先生の説明後、自分で解けている問題が何題あったか」などを注意深く見る。

 「声かけ」や「板書のきれいさ」「先生の楽しい話」よりも、苦手な教科の授業が終わった時点で、「目を輝かせて」「できるようになったよ」「今日は勉強いっぱいしたよ」、が何より大切なのだ

 よく、難しい言葉や用語を使い、保護者が関心するような「講義」をする先生がいるが、自分はそんな先生のもとに自分の子を預ける気にはならない。だって、普通は「分からないこと」「できないこと」を「できるようにして欲しい」からこそ「塾」に行くかせるんだから。もともとできるのであれば、「自分」で勉強すればよいし、「演習→解説型」の塾でさらに高みを目指せばよい。

 「不定詞ってアレでしょ、toプラス動詞の原形」と答える生徒は多いが、「彼は早く家を出たいと思った」「彼女は外国に英語を勉強するために行った」「彼女はその話を聞いてとてもハッピーだった」など英文を「言ったり書いたり」できない生徒はいまだに多い。「見た目が一緒だけど意味が変わる、前後をからめた構造分析が必要なもの」は、「英語の文法」に限らず「古文の助動詞」などにも見られ、生徒たちが苦手とするものの一つ。「用語」だけを知っていてもダメ、「形」だけを知っていてもダメである。「点数」につながるような「教え方」が求められているのだ。もっと言えば、英語の場合「読み書き」につながる指導(古文も「読み書き」まで行けばすごい!実際、和歌とか詠むsuper高校生、おるもん)が求められている。そこに到達するためには「難しい用語」の説明の段階で終わってしまうのではなく、いかに「分かるように」「使えるように」授業を通して生徒に伝える「難しいものをより簡単に」という教える側の「超絶技巧」が必要になってくる。

 「授業見学」といえば明らかに「塾の先生の実力を見極めてやる」と、5,6人でいきまいて教室の後ろに横一列で陣取る保護者(お母様や同業者が多い)が1年に2度くらいは登場する。その時は、生徒に「授業の邪魔だから5分で帰すよ」と協力を要請することがある。挨拶をし終えると、すぐに、プリントに載せてある問題を順に「指して」生徒に「即答」してもらったり、宿題の答えを「和訳・英文ともに板書」し、生徒が「ノート」し終わったタイミングで、日本語を自分が言って、順に「英文」を一人ずつ「音読」してもらったり、緊張感のある授業を展開する…そこで、「保護者の方も一緒に参加しますか」と声をかけると…たいていの方は「あっ、お邪魔しました」とおっしゃっていただけることが多い。

 「先生の話が面白い授業」も人気があるが、「統率された教室の雰囲気(積極的に生徒が集中して授業に参加し、緊張感のある教室)」もなかなか保護者に人気なのだ。「授業見学」は、生徒にとっては「授業参観」に似た「空間」だ。完全に、普段通りの授業を見ることはではない、という認識は保護者の方にもしっかりと知っておいていただきたい。

 書くべきかどうか迷ったが…じっくりと「基礎力」を上げる内容の日に「体験授業」が当たれば、いわゆる「魅せる授業」をすることもある。自分の場合、生徒が「魅せる授業」を演出してくれることの方が多いが…。あくまでも、その日、やるべきことが最優先だ。その中で、全力で、塾の「スタイル」を保護者に伝える努力はする。うまく行くときもあるし、時には突発的な事件が起きることもある。それら、すべてを見てもらい、もし、それで「ダメだし」されるのであれば…それは仕方がない。

 繰り返しになるが、我が子の「苦手教科」の「体験授業」を見学することは重要だ。「先生との相性」「先生の実力」を自分の目で確認する一つの重要な機会でもあるからだ。親が「この程度の授業」と思ったとしても、お子さんが「苦手教科」の授業」後、「満足し」、「解けるようになった問題が少しでも増えた」のであれば、壁が少しぐらい汚なかろうが、建物が多少古かろうが(耐震構造がしっかりしているという条件の下でだが)、「その塾はお子さんの通う候補」になりうる。

ただでさえ「学校行事」などに追われる授業、なぜか中学校の「歴史」「公民」の教科書をちゃんと終わったのをみたことがありません。特に中3では「歴史・公民」プリント的なもので無理やり強制終了する場合も?「数学」は「定期テスト前」になると突然「超駆け足授業」で「教えたこと」にしちゃう中学校、けっこう多くありません?★

 個人的な見解になるが、学校でよく進度が遅れるNo1の教科が「歴史」、No2の教科が「数学」だと思う。あくまで好意的に推測すると、「歴史」の場合、何をどこまで膨らませて先生が説明するかによって、「数学」では、「ここまではできて欲しい」という「こだわり」気持ちから「戻っては復習」となり、進度が遅れるというところか。

 余談だが、中学の「歴史」では、「明治以降」になってくると「公民」と合体させた「歴史with公民プリント」のようなもので授業にしちゃう中学校もある。先生の「お手打ち(手書きのメッチャ読みにくい場合もある)プリント」で「これで授業まとめてしちゃうよ」みたいなプリントだ。ならば、「検定教科書」自体をそういう形に変えればいいんじゃないか、と思ってしまう。よくまとまったプリントであり、「入試」の時に見直すのであれば良い参考書になりうる(う~む、さすがだね)。しかし、「定期テスト前」、「学校のワーク」を解くとき、毎年、生徒が大変な思いをしているの、先生はご存じでしょうか。確かに、「歴史」も「公民」も教科書に載ってる範囲は教えたんだから、どこを出しても解けるでしょ」と言われりゃ、生徒は「わかりました」と言うしかない。が、生徒はプリントをはさんだファイルを前に後ろに「メクリまくって」答えを探すのに大忙しで(生徒の様子を見ていると『捜す』の方が正解のような気がする)必死になってます

 「数学」の場合、これとは違った理由で授業が大幅に遅れる場合が多い。例えば、一次関数を勉強する際、「連立方程式」が解けるた方が良いのはご存じの通りだ。ここで、「生徒思い」の先生は「連立方程式の復習テスト」なるものを実施する。単元ごとにその単元に必要な「復習小テスト」をするのだ。生徒の学力の底上げすると言う意味では大変有意義なことだと思う。その数週間後、他のクラスが「直線に囲まれた三角形の面積」を出しているときに、その先生の担当のクラスはかなりの遅れをとり「二点を通る直線の式」を求める授業が行っていた。JRの特急列車いたとえると、『特急料金』払い戻しのレベルの遅れである。その結果、次の「定期テスト範囲」の「最後の2つぐらいの単元」がその先生が担当している2(ふた)クラスで「ハイスピード」になる。教える側は、「どうしても範囲は終了」させなければならない。「超駆け足授業」と表現したが、2日程度で1単元が終了するような異常なスピードの時もあった。「数学」が「苦手」な生徒にとってはそれこそ「目の前を新幹線が通過する」ような「超絶スピード」であり、これでは「復習」が不可能だ…。

 さて、そうは言っても、どの先生、いかなる講師もその日の授業内容全体を伝えたい、次に生徒になるべく重要なことを少しでも印象づけたいと日々精進している…と信じたい。そして、生徒たちが家での復習の際、暗記したり、問題演習に役立つような「授業」をしたいと考えている…と思いたい。

 次回は、その「スピード」ある授業をどうやってよりよいものに変えていくか、先生・塾の先生や講師、予備校講師たちの、アイテムやそのアイテムによって「ノートを取る」ということへの「影響」などに触れてみたい。